ネコであるライオン、あるいはライオンであるネコ
どこからどうみてもネコなのに、自分をライオンだと思い込んでいる
――― そういう人いますよね。
ネコであることは、べつだん悪いことでも、恥ずかしいことでもないのに、どうも自分を大きく見せたいのか、強く見せたいのか、実像とセルフイメージがずいぶんズレている人のことです。
もちろん、実像とセルフイメージとがぴったりと一致するという人もいないでしょう。多かれ少なかれズレはあるものです。傾向としては、実像よりもセルフイメージのほうが、ちょっと手前味噌なのがふつうでしょう。ただ、そのズレが尋常でない場合は、ちょっと理解に苦しむ性格ができあがる可能性があります。
「わかってもらえないんだよなあ」という感じは、程度の差はあっても、だれでもが体験することといっていいでしょう。「周囲からの評価にどうも不満がある状態」そう言い替えてもかまいません。
けれども、それを周囲のせいにするのは、ちょっと考えものです。
なぜかというと、ふつうその人の実像というのは、周囲の人から見えている像のことだからです。
つまり、他の人からどう見えているか?これが実像です。実像という言葉は、実体や真実のようなものとは、ちょっと違うことを意味しています。
ですから、周囲が変われば、実像も変わるということはよくあります。
職場でのAさんと、家庭でのAさんが、ぜんぜん別人であるということは珍しいことではありません。両方ともがAさんの実像であり、相手によって実像が変わることは不思議なことではありません。
けっきょく評価というのは、周囲の人からどう見えているかということです。
この前提を素直に認めるなら、周囲の人から見えている像に、本人が異議を唱えるというのは、けっこう無理筋な感じがしますよね。
周囲から見えている像にたいして、じつは本当の自分は違うんだと主張しても、それが周囲の人に認められる可能性はほとんどありません。だって、見たまんまのあなたがそこにいるのに、じつは違うんだと言われても、だれも納得はしません。
さて、話は元へ戻って、自分をライオンだと思い込んでいるネコのことです。つまりネコというのは、周囲からそう見えている実像のことです。ライオンというのは自分でそうだと思い込んでいる、あるいはそう思いたがっている「期待像」のことです。
周囲からはネコに見えているのですから、周囲の人はネコとして処遇するのが当然だと思っています。ところが本人は、自分はライオンだと思っている、あるいは思いたがっているのですから、ネコとして処遇されることには、たいへんな不満があってストレスがたまるのです。
そもそもネコに見えているのですから、ことさらに面と向かって「あなたはネコですか?」と、周囲から訊くことはありません。たぶん本人もネコであることを自覚しているだろうと思うので、いちいちそれを確かめたりするようなことはしません。ですから、なんの悪意も他意もなく、ふつうにネコとしての処遇をするのにすぎないのです。
ところが本人は、自分は気高いライオンだと思っています。“百獣の王”にたいしての尊敬や畏怖が、周囲の連中には足りないように感じます。はっきり言わなくても、その態度や言葉の端々から、どうも必要以上に軽く扱われている、あるいは侮蔑されているのではないかという疑念が拭い去れないのです。
そうすると、「なるほど、周囲の人たちは自分の実像に気が付いていないのだ。それならここはひとつ、気が付くように働きかけるべきだ」そう考えるのも自然です。
もちろん、だれかが面と向かって「あなたはネコだ」と言うわけではありませんから、「自分はネコではない」と否定する機会もありません。であれば、さまざまな機会を捕えて、自分がいかに気高いライオンであるのかを周囲にアピールするしかないのです。
ところが、遠慮がちにアピールしていると、どうも聞いていないふりをされたり、たいしたことではないと聞き流されたりすることが多いのです。まあ、周囲からはネコに見えているのですから、あたりまえなのですが、本人はどうも腑に落ちません。
そうか、それなら、多少の誇張を加えてでも強く主張しないと、他人には伝わらないのかもしれない、そう思ったとしても不思議ではないでしょう。
セルフイメージを誇張するような話は、おおよそ自慢話になります。自慢話というのは、やり始めるとなかなか気持ちがいいのです。ちょっと一杯呑みながら語る自慢話は蜜の味です。相手が黙って聞いてくれていて、ましてや絶妙のタイミングで相槌などしてくれようものならなおさらです。
自分はライオンなのですから、自分の気高さについて語ることに、だれはばかる必要もありません。でも、ほんとうにちゃんと聞いてくれているのか?理解してくれているのか?話している最中にも、やや不安になることもあります。じつをいうと、自分がライオンであることに多少の不安もないわけではないのです。
ときどき寝起きのときや、疲れているときなど、鏡に映る自分の姿がネコのように見えて、ハッとしたことがないわけではないのです。しかし、断じてそんなことを認めるわけにはいきません。語り始めた英雄の物語を、途中で萎ませるわけにはいかないのです。
するとこの不安を振り切るために、効果絶大な誇張を、ついまた差し挟んでしまうのです。相手は感心しているようにも見えます。やっぱり思い切って誇張しないと伝わらないのだ、そう自分に言い聞かせます。そうするうちに「そうだ、自分はやはり“百獣の王”というのにふさわしい」自分でもそうであるように思えてくるし、そうするとさらに楽しく愉快にもなってくるのです。
さて翌日のこと、昨夜とっくりと自分の気高さの物語を聞いてくれた彼は、さすがに自分がライオンであることを認めてくれただろうと思います。ちょっとよそよそしいようにも見えますが、それはライオンに対する畏怖を感じて遠慮しているからかもしれません。
よし、ここはひとつ、大人の態度で、姿勢を低くして、わざとフランクに声を掛けてみよう、そう考えて、「やあ!」と明るく声を掛けてみたのです。
……すると、なんたることか!……
彼はおもむろに、“百獣の王”のノドを撫でるという暴挙に出たのです。
さて、こういうことは、喜劇なのか?悲劇なのか?実像とセルフイメージのズレというのも、それが極端になるとなかなかやっかいなものです。
だって、ネコはネコなんだから、ネコでいいじゃないですかねえ。どうしてライオンになりたいなんて思うんでしょう?
そうも思いますが、でも、案外とこの世の中は、自分がライオンだと思うような人たちによって支えられているのかもしれません。自分をネコだと思うようなのは退嬰的なのかもしれません。
みなさんは、どう思いますか?